「論文進化論」の巻

 レポートを認めていてつくづく厄介だと感じるのが今回のテーマにある「論文進化」である。主な課程はこうだ。


☆一応書き上げる

誤字脱字のチェック

段落組み換え(帰納法になっているか否か)

別のアイディアが浮かぶ(削除・追加)

とりあえず文章化

争点との誤差をチェック

全体の構造を俯瞰(場合によっては組み替えたり)

納得するまで☆へ戻る


 演繹では浮き足立って見えるので専ら帰納を用いるのが私の書き方だ。要はオチが付かないと落ち着かないのである。また、半期分の講義における論文なら一日で一気に書き上げる。所詮大学生の書くものなんてたかが知れているし、無駄なく勢いよく高温でサッと炒めて皿に盛るのが最良であることを知っているからだ。
 論文は生きものである、というのは私が大学でいくつかの論らしきものを著したうえでの真理である。最も厄介だった事例を挙げよう。それは『西鶴名残の友』の講読授業を受けていたときのこと。教場試験だったが、その場で論じてみよ(持ち込みは一切不可)というものだった。私は当時西鶴熱の初期症状患者であったので担当教員に「教場試験では時間が足りません」と訴えた。すると彼女は補足するレポートを提出するよう答えてくれた。内容は『名残の友』に見える多くの破綻を西鶴の「無常観」に準えるというもので、書き上げた時点ではかなり満足していた。
 だが、問題は試験当日に起こった。あろうことか試験解答において私は西鶴そのものをも無常観にひっくるめてしまい、つまり『名残の友』の破綻は畢竟西鶴そのものの破綻であったと定義づけしたのである。これが「論文進化」である。
 繰り返すが、論文は生きている。常に進展、或いは退行する存在である。我々の書き上げたものは、彼の成長の一部を辛うじてスナップに収められたものに過ぎない。時として争点さえも遷移してしまうほどの変貌を遂げることすらある。ある人は同一人物がそれぞれ別の時期に書いた文章を比較して、論旨が一貫していない、という。滑稽極まりない。ひとつの論文で争点が変わっていたり分裂したりしているならまだしも、別の時期に書いたものが同じ構造をしているわけがない。著者自身に何らかの経験が彼の思考を進化させ、論文を成長させたのだ。もし論旨がすべからく一貫しているなら、その人物の根源的な要素に触れる論文であるか、それとも彼自身が成長へ向かわない怠け者であるかのいずれかである。
 私が論文を短時間で一気に書くのもここに理由がある。まごまごしていれば彼は私が目を離した隙に姿を変えてしまっている可能性が非常に高いからである。そして、逃したイメージは決して戻ってこない。