「追憶、穏やかに」の巻

 村上龍ラブ&ポップ」読了。書かれてから10年が経つわけだが、意外とこの時代における記憶が鮮明であることにまず驚いた。当時のわたしは小学生であり、東京とはいえ郊外に住んでいたので渋谷は勿論のこと援助交際とも縁遠い日々にあった(幸か不幸か、渋谷はともかくとして現在に至るまで援助交際には縁がない)。最初に読んだのが中学に上がってからの頃だったと思う。その頃は色々なことがよくわかっていなかった。
 さて、この小説のキーワードは「依代」である。依代とは霊媒術やお祓いなどに用いる存在で、霊的存在を移す人体を指す。それは黄泉との通信機関であったり厄を目に見える形で具現化するための手段であったりする。ここでは記憶を象徴する、もっと言えば記憶を擦り付ける存在として慣用したい。具体的に示せばマスカット、手料理、インターホンの音、ピラフの紙ナプキン、インペリアル・トパーズなどである。人はパンのみにて生くるものではないが、幸福感だけでもやはり生きることは出来ない。何かしらの媒介物とセットで記憶し、それを糧にして生きる節がある。「もの」と「こと」は切り離してしまうと忽ちのうちに薄くなる。逆に、組み合わさればそれは相乗効果を為し、対象が記憶をより鮮明に描き出し、記憶が対象をより価値ある存在にするのだ。
 これをすべて形而上の世界に置き換えると「キャプテンEO」の意見とほぼ重なる(伏線として高森千恵子の丸井一階のフレグランスコーナーにおける発言があることは自明である)。つまり「他人の存在」を依代として「自分」を形成するという言わば逆輸入的な自己同一性の確認作業が存在するのだ。他人は常に自身の身勝手なイメージでしかない。あくまで当人が描いている対象の感覚(確かに多少の真実は混じっていようが)を織り交ぜて把握しているに過ぎない。この確認作業に疲れた人々が物語で言われている「田舎に引っ込ん」でしまうタイプである。名前も同様だ。名前とは須らくメタ言語でしかない。Eminemの「The way I am」の世界だ。逆を言えば、自らの本質を名づけられるのは自身しかいないのである。この辺りの伏線はどうしようもない孤独感からの援助交際や自慰というくだりに現れている。他人がいてこそ自分がある。しかし、目に見えるのは自分だけだ。そういう色々な他人の視点っぽい視点から「自分」で自身を構成するのが人なのだろう。……でもそれってマスターベーションとまんま同じじゃねえ?

 今回は以上です。