「形無き舶来品」の巻

 漱石が「I love you.」という一文の和訳を学生に問われて「日本語にそんな言葉はない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と返したという逸話があるが、確かに日本人にとって愛とは存在し得ない感情のひとつである。そもそも感情かどうかすら定かではない。恋はあった。語源は「乞う」という動詞であり、つまりは欲求である。芥川の「恋とは性欲の詩的表現である」という言葉はおそらくここに拠ろう。「恋愛」などという単語のおかげで昨今では愛と恋とが区別されづらい。そもそも別の言葉としてきっちり存在しているのだから、何かしらの違和があることは読み取れようが、大抵の人は素通りである。むしろ正反対とも言える概念だというのに。
 敢えて言おう、愛とは開国以来の舶来品であると。「無償の愛」という言葉があるが、これは「馬から落馬」と同様の構造をしている。愛とは常に無償であるべきだからだ。見返りを求めれば、それは「欲求」であり「恋」である。惜しみなく与え、奪うものでそこには感情の入り込まない関係がある(先ほど『感情かどうかすら定かではない』を書いたのはここに由来する)。常に愛は身勝手で無ければならない。無慈悲なまでに愛し愛されねば、それは愛ではないのだ。
 この辺りが明治の人々には衝撃的だった。かつての日本人とはアクションの悉くに感情移入してきたからだ。月を見ては悲しくなったり花に触れては懸想を思い起こす。そこへ「愛」という未曾有の概念がやってきた。それはしかも、一見「恋」と見まがうような作りをしていた。新し物好きの人々は挙って愛を手に入れよう、理解しようとしたが、自身の胸のうちにあるのが恋であると気づき大いに打ちひしがれた。その一人が漱石である。仕方ないだろう。愛とはキリスト教において発生した概念なのだから。
 愛とは先にも述べたように与奪の関係だ。ひたすら与えるだけだったり奪うだけだったりというのはまずない。となると前提として求められるのが平等性である。キリスト教にはすべての人間は神の下に平等であるという大前提が存在する。ここにおいて与奪はスムーズに行われ、愛が成立するのだ。日本には特定の根付いた宗教というものが存在せず、敢えて根源的なものを提示するなら儒教があるくらいだ。儒教にあるのは己の欲せざるところを人に施すべからずという哀れみの精神だ。これは日本では小学生くらいの頃から叩き込まれる。あの「人の嫌がることはやめましょう」というやつだ。ここに平等性は無い。哀れみにはかける側とかけられる側という絶対的な上下関係があるからだ。
 では日本人は愛を手にすることは出来ないのかというとそうではない。単純に愛の基本的構造を知らないので感知しないだけである。例えば子供を必死に育てる。そこに将来子供に世話を焼いてもらおうという深謀遠慮が無い(と思いたい)のは明らかだ。これは愛以外の何物でもない。わたしは子育ての経験がないので今ひとつ理解できないが、経験者は「育てること自体で報われたような気になる」らしい。確かに与奪の関係があるわけだ。つまり、日本人とは恋を愛であると勘違いしながら、実際の愛を体験しつつなかなか気づかないということである。

 今回は以上です。