「線画」の巻

 雨が嫌いだ。やる気を覿面に殺いでくれるからである。まず外へ出られない。というわけでインドアで過ごすわけだが(基本的に引きこもりなのだけど)もう本を読むのすら鬱陶しくなる。レコードも要らない。講義やバイトがある日は尚更だ。何より傘で片手が塞がるのが憂鬱でならない。雨の降る音は胎児の聞く音と似ているというが、そのせいだろうか。とかくに覇気が失せるのである。
 しかし、日本の芸術や文学が雨と強い連関を持っているのは否定できない。西欧の絵画で雨の描写というのはほとんど無い。気候が乾燥しているという特徴ももちろんあろうが、おそらく油彩のために立体感が出てしまうからだと考える。やはり直線をさっと引く日本画にこそ雨は描ける。「雨」と聞いて最初に思い浮かぶのが花札の20点絵というあたりが何とも情けないが。日本語において雨を表現する言葉は時雨、小糠雨、五月雨、氷雨など枚挙に暇が無い。時節や気候に左右されなくとも「涙雨」というように感情になぞらえるものもある。単語でなければ「打ち付ける雨」「そぼ降る雨」など、さまざまに雨は態度を見せてくれる。

> 大雨の感と云ふ事あり。
> 途中にて俄雨に逢ひて、濡れじとて道を急ぎ走り、
> 軒下などを通りても、濡るる事は替わらざるなり。
> 初めより思ひはまりて濡るる時、心に苦しみなし、濡るる事は同じ。
> これ万づにわたる心得なり。

 山本常朝「葉隠」の一節である。つまり、雨は日本人にとってあらゆるものを豊富にしてくれる存在なのである。
 それでも雨はわたしにとって厄介な存在でしかない。とここで、あるひとつの考えが浮かんだ。それはこの感覚が日本人の伝統的な感性と合致しないというものである。雨とは前述のとおり様々に日本人に影響を及ぼした。そこから発生した文学、芸術、思想が今なお存在しているのは明らかだ。しかも雨は形而下的な側面にも有効である。つまり、農作物と飲料水である。目下、わたしはお金でもってそのすべてを手にすることが出来る。しかし、かつての人々は雨なくして飢えを凌いだり渇きを癒したりということは不可能だった。この天運とも言える不可能性こそ日本人が雨に思い入れを持つ理由だったのではないか。翻ってわたしであるが、ほとんど雨に対して思うところが無い。ただわたしの行動を制限するものである。わたしにとって飲み水は雨から来るものではなく、蛇口から流れるものだ。雨が無ければ作物は育たない、という事実は知っている。知っているが、ただそれだけのことで実感が湧かないというのが正直なところである。けれども、ここにおいてひとつだけ雨による有効な結果が得られた。それは自身において、本質に無自覚である要素のひとつを確認したことである。これよりわたしにとって雨は厄介でしかないものではなくなるだろう。