「2007年」の巻

 今月8日は都立六本木高等学校の説明会だったらしいが、これには参加すべきだったと思う。文学方面へ向かっていって、もう教員免許はいいかなと考えていたのだが、最近になって定時制高校に食指が動いていることを自覚したからである。中でも六本木高校のカリキュラムやシステムは実に理想的で、しかもわたしが現在お世話になっている先生のお知り合いが校長を務めていらっしゃる。平成19年には八王子にも新しい定時制高校が出来るらしい。二年後といえば順調に行けばわたしも実習を終えて免許を取得しているころだろう。わたしは稀にこのような運命的な出来事に遭遇することがあり、それを信じる節がある。
 そもそもなぜ定時制高校に視点を向けたかというとムードマンというDJがある雑誌のインタヴューを受けた記事を読んだのが発端である。彼は大学時代からDJを初め、現在でもそれなりの知名度を誇り、全国からお呼びが掛かる中堅的な存在だ。さて、彼のような人間は得てしてそのままDJをやったり音楽を作ったりして糊口を凌ぐわけだが、彼は違った。大学卒業と同時に某広告代理店に就職したのだ。サラリーマンである。しかもその会社は業界でも多忙であることで有名で、その忙しさから自殺者も出たというほどなのだ。しかも、昼の仕事が終わればレギュラーのパーティーでDJをやる。平均睡眠時間は二時間程度。なぜ彼はサラリーマンを選んだのか。

> 「このままずっとそういう暮らしをしていても、
> 結局音楽好きの人としか会えないんだろうな、
> と思ったら何だか急につまらなく思えて、
> ちょっと違う人にも会いたいなと。」

 文学の講義を受けていて切に感じるのはムードマンのような空しさである。現在、わたしが受けている文法の講義を担当している先生が、わたしたち、つまり国文学科の学生に施したのと同じものを英文科の先生に受けてもらったところ、半分も解けなかったという。要するに、専門職の人間はその専門のみに懸かっていてはならないということだろう。ここにおいて、定時制という環境を職場として捉えた場合のメリットが浮かび上がる。つまり、生徒の多様さである。学校とは授受の場だ。「人は教えることによって学ぶ」という言葉があるように、教員はすべからく、生徒から何らかの影響を受けるものだろう。普通科の高等学校であれば、生徒は得てして年下であり、また、学校に来ることがいわば第一義である。定時制は違う。役者の卵であったり昼間はひたすら仕事に精を出していたりとバラバラだ。もうひとつの理由は、定時制の生徒は確実に能動的に授業を受けていることである。わたしが高校生活を振り返って痛感するのは、わたし自身が如何に「勉強」に対して受動的だったかという事実だ。どう考えても受け流していたように思い出せる。学ぶこととは常に能動的であらねば意味がない。能動的であるがゆえに、その身に経験が落ち着くのだと考える。この点において定時制の生徒諸氏は申し分ない存在なのだ。以上の事柄から、わたしは定時制高校の教員に魅力を感じるのである。

 今回は以上です。