「気質と呪縛」の巻

 MONKEY MAJIKの「Around the world」を試聴してそのまま買ってしまった。日本人にこの音は出せないだろうと思いながら聴いていたのだが(作詞作曲者が)カナダ人ということで納得。おもわず「カール・ダグラスかよ!」とつっこみを入れたくなる曲だが、こういうベタな感触をわたしは非常に好む性質なのだ。ここで「ベタ」と一応表現したもののこの「ベタ」とはあくまでわたしの実感であり、きっと彼らのそれではない。普遍的な言い方をすれば自身が「ベタ」と感じるものほど表現しづらいものはないのだ。常に対象化が困難なのは自身である。人は鏡を見ないと自らの容姿がわからないし、文章や絵画などにしてみないと心象風景は掴みにくいものである。誰かと会話をして初めて自身の意見がわかるというケースも決して稀ではない。
 ここにおいて、細野晴臣という人物を挙げたい。彼はこの自身の対象化を特殊な方法で行った。細野氏は日本語ロックを築いた一人である。ゆえに彼の自身の対象化とはすなわち日本語ロックの形成とほぼ同じ過程と考えて差し支えあるまい。して、その手法とは「泰安洋行」というレコードと存在を一にする。この作品はハリー細野という日系人の世界旅行というコンセプトを持っており、海外から日本を見つめなおした視座を得ている。「Japanese Farewell Song〜SAYONARA」などはその代表格だろう。けれども、畢竟それは「見つめなおした」視座に過ぎない。MONKEY MAJIKやカール・ダグラスのそれとは全然質の違うものである。
 両者の大きな違いはそのアクションの基点にある。細野氏ははっぴいえんど解散後にソロ作品を発表していたが、きっとその一連の活動は日本のロックを見直すものであったと考える。狭山のアメリカ村に住んだり、「ハリー細野」という別人格をでっち上げたりというのはその方法の一部であり、つまり意志があったのだ。一方のカール・ダグラスの基点は感覚である。興味である。偶然出逢った東洋音楽に惹かれてそれを自身で再構築したのだ。「再構築しよう」という意志は確かにあったかもしれない。だが、やはり契機は「これは面白い」という感覚であって「アジアの音楽を聴き直そう」という意志ではない。もっと簡素化すれば既知と未知との相違である。どちらがより衝動的であろうか、どちらがよりモティヴェイションの質が高いであろうか。そして、音楽は衝動やモティヴェイションを原動力とする。次にわたしが問うべき事柄とその答えはもはや明確だ。別に細野氏の行動が悪いというのではない。ただ、自身の対象化とは先の見えない作業であると痛感する次第である。
 ところで、「Around the world」のPVがもろにクリス・カニンガム風味なのだがこれは狙っているのだろうか?