「仕方ない」の巻

 50歳を過ぎて肉体労働で生活の糧を得ている人というのは、言うまでもなく会社社会における下層の人間である。しかも正社員でなくアルバイトであるとなれば下層も下層、最下層である。そういう方々を相手に三年ほど工場に勤務しているわけだが、この継続は偏にわたしの忍耐と寛容、そして(給与や環境とは別個の)労働条件の良さに拠るものだと思う。50歳を超えてもなおネクタイを締めない理由はいろいろとあるだろうが、八割がたはその人が組織社会で生きていけないからだとわたしは考える。組織において肝要なのはコミュニケーションであるから、要するに彼らは畢竟コミュニケーション能力が欠落しているのだ。観察してみると、彼らは挨拶が満足に出来ない。年齢の近しい=同じ立場の人間にはするにはする。そして、ほとんどが年下であるがゆえに挨拶は不要なのだ(と思い込んでいる)。わたしのような学生風情は無視して当然である。また、彼らには拒否権という特権が付与される。これは、上司でさえ年下であるための特権である。肉体労働はデスクワークと異なり、明確な年功序列が存在するからだ。他にも、その「プライド」から素直にモノを頼むということが出来なかったり上の特権を利用したあからさまなサボタージュを行なったりと彼らの特徴には枚挙に暇が無い。これらの特徴が会社組織において許容されることはまずなく、やはりこれも彼らが肉体労働者である所以である。
 しかしながら、彼らとて心から肉体労働へ従事したいと思っているわけではないだろう。同年代の人々はそれなりに職も安定し、マイホームまで持っている可能性もあるというのに、というフラストレーションを抱えていることだろう。原因だって突然のリストラだったり会社との折衝だったり、あるいはどうしてもこの歳まで仕事が得られなかったりという「どうしようもうない」類のものに違いない。では、その理由はと遡ってみると前述のコミュニケーション能力不足や会社組織において生き残る術に対する無知という自業自得な対象があるのだけれど、事実を突きつけることが残酷であるのは言わずもがなである。それゆえ、彼らは何かしらの根源的不満を携えて労働しており、その不満が依頼の不可能性やサボタージュへと彼らを駆り立てているのかもしれない。ところで、世の中には「保存の法則」というものがある。質量やエネルギーといった可視不可視に関わらず、すべてのものは消滅することなく畢竟移動するにすぎないという理論だ。彼らが労働中に発散しているフラストレーションとて消えるわけではない。どこかへ移動しているのだ。では、「下層」たる彼らからどこへ移動させるというのか。答えは明確である。