「リバイバル、あるいは忘却に対する経済的美徳」の巻

 タワーレコードに立ち寄ったらDVDの視聴コーナーで奇妙な商品を発見した。「兼本さん宅」という鉛筆だけで描かれたコマ送り(みたいな質感の)作品である。別にグラフィックの技術がひどいものを売っている、ということには抵抗は無い。技術の(受動的な)乏しさは時として構想を予想外に具現化する作用があるのは前に示したとおりである。では、いったいどこが奇妙なのかというと、その形態だ。これは、局の用意した電話番号に好き勝手にメッセージを吹き込んでみるというテレビ番組の総集編を収めたDVDで、番組のほうはそれなりに売れているらしい。おそらく視聴者参加というリアリティ(『リアル』に非ず)が受けているのだと思われる。これは言うまでもなく70年代から脈々と受け継がれるラジオの投稿コーナーと同じ手法だ。けれども、そのような巨視的な点のみならず、わたしはもっと近い、しかもテレビの番組を知っている。それは「社会の窓」という深夜番組である。
 やはり同じく局の用意した留守番電話にメッセージを吹き込んだり、もしくはFAX、メールによって送ったりするという形態で、出演者が面白いか否かを論議する。そのうえで、主宰であるいとうせいこうが入賞を判別するという番組だ。いま「そのうえで」と書いたが、決して出演者の意向が必ず反映されるとはかぎらず、要するにいとうの独断で価値が決まる。日本語ラップの黎明期にその身をおいた、いとうならではの「日本語」に対するセンスが光っていたように思う。深夜番組を観始めたというわたしの時代性もあり(そしてドリームキャストが提供していたという点も踏まえて)ファンキーな番組だった、という印象がある。
 最近わたしは自らの発表について、発表のみに価値を置き、その反応には無関心な人々の存在を知った。「吹き込み」をした彼らもまたその範疇にあるのだろう。一応「兼本さん宅」にしても「社会の窓」にしてもそれなりのレスポンスは返ってくるものの、彼らがそれをさして期待していないのは前者はBS放送、後者は深夜というそれほどメジャーではないテレビメディアで行なわれていることからも読み取れる。
 まあ、こういう意見というのは「OASISビートルズのパクリだ」みたいな不毛な論という側面もあるので下世話には違いなけれども、未だにこうした小手先を変えたリバイバル商品が売れるというのは、なかなかに理解しがたい必然である。