「神髄」の巻

 ブルックナー交響曲第9番ニ短調を聴く。朝比奈隆指揮、演奏は東京交響楽団。1991年5月16日の渋谷・オーチャードホールにて収録。第2楽章における、オーケストラの容態が心配になるくらいの容赦ない肉体的凄絶さに度肝を抜かれる。特にひたすら鳴り続けるティンパニの低音連打と出だしからフルヴォリュームを響かせる楽器群。この曲はブルックナーの未完の遺作(第4楽章まで作るつもりだったらしいが、実際は第3楽章までしか遺されていない)であるが、それに相応しいような、にしては強迫的すぎるような印象を受ける。他の二楽章に比べてこの第2楽章は(スケルツォということもあるのだろうが)時間的には半分以下で、しかも強烈なフレーズを繰り返しつつ引き上げるという鬼気迫る構成であり、全体の中核的存在であることは想像に難くない。かのフルトヴェングラーが初めて人前でタクトを振ったのもこの第9番らしいが、なかなかどうして、彼の自信とブルックナー(そして音楽そのもの)への畏敬が感じられる挿話と言えよう。
 おそらく、芸術に必要なもののひとつは恐怖である。わたしが初めて触れたピカソの作品は、あるカタログに載っていた絵画「泣く女」だ。あのサイケデリックさ加減は、幼少期のわたしにとって恐怖の対象以外の何物でもなかったように記憶している。あとになって、その感覚が何かに移行していった。その「何か」は未だつかめていないが、「ヤバい」というのが最も近いように思う。あの作品から発散されるエネルギーを図らずも感じ取ってしまった、もしくは、否が応にも印象を他人に刻み付けるだけの「ヤバさ」が宿っている。例えば、ミレーの「種蒔く人」などは躍動感がどうの、しかしそこにある日常性がどうの、と一応言葉には出来そうで、そのうえ理解を示しても問題なさそうな健全さがある。翻って「泣く女」にはえもいわれぬ感傷と、「これを評価してもいいものだろうか」というある種の理解に対する後ろめたさとを観るものに与える。けれども、それは甘い禁忌であると言えなくもない。明らかに毒だと分かっていても食指を刺激して止まない、あの感覚もある。不思議なのは、そこに神々しさもあることだろうか。圧倒的存在感、と言葉にすれば随分と薄いものだが、そうした凄絶さがある。先述の第9番に感じたのはどうやらこれらしい。オーケストラの一人や二人、演奏のせいで酸欠になったり脳溢血になったりしても構わないという、狂信的観念だ。他を殺しうるような残酷さと、(しかしそれゆえに発生する)他を釘づけにするような蠢きという背反。これがわたしの考える芸術における究極点のひとつである。