「回路への接続」の巻

 NHK教育N響アワー」を観る。ゲストは菊池成孔。だから観たのだけれど。現在のわたしはひたすらジャズを追いかけており、必然的に菊池氏を追いかける形になる。ジャズに関する技術はもちろんのこと、理屈として体系化(少なくとも東大で講師を務める程度には)していて、かつ一般の人間がなんとなく感じることのできる数少ない人間だからである。テロップでは「文筆家」とも記されていたが、わたしのとっての彼は「スパンクハッピー東京ザヴィヌルバッハの人」であり、「サックス奏者」でしかない。昨日たまたま寄った図書館で菊池秀行(成孔氏の実兄)の小説なら借りたのだが。
 ヴィジュアルから驚かされた。アディダスのジャージにダメージジーンズ、そしてお決まりのゴテゴテしたアクセサリー。こんなキッチュの化身がNHKに出演出来るものだろうか。年末の小林幸子の五千分の一程度の派手さである。選曲は現代音楽を三つと古典を一つ。しかもその唯一の古典がラヴェル「優雅で感傷的なワルツ」なのだから人を食ったセレクトである。
 現代音楽、というのは正直わたしにはよくわからないが、電子音楽の黎明期とほぼ同じ時期、つまり、アコースティックオーケストラに電子機材が介入しだした時代の音楽だととりあえず認識している。中でも万博のことを取り上げたのは印象的だ。言うまでもなく「万博」とは1970年の大阪万博である。海外からはクセナキスシュトックハウゼンといった大家が来日し、負けじと日本からは武満徹が作品を展開した。日本に於いて、ボサノヴァより先にジャーマンテクノが流行したのも頷ける話である。質実剛健、という言葉がそれこそ古典の時代よりドイツの音楽には存在した。それに武士道的愚直さが呼応したのだと考えると、話は明快になる。
 もうひとつ、電子楽器ではない電子音楽が70年代にはあった。具体音楽(ミュージック・コンクレート)と呼ばれる手法で、録音したテープを応用したり編集したりして作品にする。現在で言うところのサンプリングであり、ピエール・アンリ「ドアと溜息のための変奏曲」あたりが有名どころだろう。後に自然の音を用いてチルアウト、あるいはアンビエントに派生するか、もしくは工場や機械の音で構成したインダストリアルへ向かうという二極化が起こる。
 けれども、今回の現代音楽はすべからくアコースティックな編成であり、やや落胆したのだが、それでも収穫はあった、つまり畢竟オーケストラであるということである。平生よりシーケンサに触れているせいか、何人もがいっせいに動く光景はそれだけで面白い。アコースティックであるがゆえに、音の小さい楽器が大きな楽器に負けてしまわないように多数配置する、という発想はやはりオーケストラならではであろう。そこには一種のあがきを感じる。ティンパニを使うがゆえに同じパートのヴァイオリン奏者を何人も呼ばざるを得ないという事実(とその経済的、あるいは物理的、時間的苦悩)を改めて確認する。そして、そこに苦悩する人間ほど芸術的であり美しいものはない。
 ところで、菊池氏がサングラスをかけているのはファッションでもなんでもなく、外すと宮藤官九郎と区別が付かないからだということも再確認した。