「失われた輝き」の巻

 一気に押し寄せてきた。わたしはこれまでにも何度かひとつテーマに沿ったいくつかの事象が連鎖反応を引き起こして連続的にやって来るという事態を経験している。それは運命というか呪いというか、何かのスーパーナチュラルな力さえ感じる。まず、先週の木曜だか金曜だかにミドリカワ書房のセカンドアルバムを買った。有吉佐和子の同名の小説が元ネタだろう「恍惚の人」という曲を何度も聴いた(緑川伸一自身も気に入っているらしい)。その次の日に小説のほうを読み返した。昨日だか一昨日だかにテレビをつけたらNHKが入り、老年性認知症についての番組が映った。そして今日帰宅したら、ドラマ「私の頭の中の消しゴム」が放映されることを知った。ここまで来ると観るしかないくらいの強迫的なものを感じた。しかも主演は及川光博である。彼はわたしが動向を窺っているひとりで、つまり「王子様」から退いてしまった彼の今後の身の振り方が気になっており、ちょいちょいチェックしている。それ以前にわたしは彼のファンだったこともあるのろうが、これ以上進めるとミッチー論になってしまうので話を元に戻そう。
 とにかくこのドラマを、わたしはほとんど引き寄せられるようにして観たわけである。内容についてはとりあえず脇に退けておいてまずは認知症について書いておきたい。わたしはこの日本語が嫌いだ。というかしっくりこない。たとえば「統合失調症」は「統合」を「失調」してしまった症状である。たとえば「骨粗鬆症」は「骨」が「粗」となり「鬆」となる症状である。つまり一般に「〜症」は「〜」の部分にその症状に罹った際に引き起こされる状態が入るわけだ。ここにおいて「認知症」という単語はその意味性を欠いている。もうひとつはこの換言という訳の分からない流行の産物に見えるためだ。前述の統合失調症もかつては一般に「分裂病」と呼ばれていた。その症状が分裂していた(=一貫性がなかった)ことから名づけられたと思われるが、「統合失調」などと表されるよりこちらのほうがよっぽどわかりやすい。さて「認知症」という語もこの観点からすると奇妙だ。実際がつかみにくい言葉のひとつだと考えている。
 「好き」の反義語が「嫌い」ではないことを知ったのは中学生の時分である。対義語ではあるが、反義語ではない。いずれも相手の存在を認めている点において共通している。反義語は思い浮かばないが、「知らない」という語がその状態に近い。ヴィジュアル的な表現ならもっと身近に感じられるだろう。たとえば、あなたがどこかで知り合いを見つけたときに声を掛ける。相手は何事かとこちらを向く。そして、あなたを認めた一瞬の間に、彼、もしくは彼女の瞳に光を感じたような経験はないだろうか。それまで陰が差していたところにわずかだが何かが煌く瞬間がある。瞳の色が変わる、とも言い換えられる。あれはつまり知覚の象徴であり、彼、もしくは彼女がその対象である自分を知覚した瞬間があの光なのだ。アルツハイマーに罹った人の眼を見たことがあるが、そこにほとんど光はなかった。これはわたしの経験の中でも非常に大きなものである。ドラマにおいてはこの点が実に残念だった。患者役の深田恭子の瞳には絶えず光が差していて、どうも認識の証が見えた。あの独特の、曇った瞳をしていなかった。まあ、このあたりは致し方ないといったところだろう。
 わたし自身、認識されないことには人並みに慣れている。気付かれなかったり無視されたりというのはよくあることだからだ。別に誰に知られたからといって新たに面倒ごとを蒙るだけなのは重々承知していたのでそれでもいいと考えていたし、それが普通だということも考えていた。だが、最近そうでもないらしいという思いを抱く契機を得た。これはなかなかに貴重な経験(これまでの考えをひっくり返される事件は常にプラス要素だ)だったと思う。これに関してはまた次の機会に。

 今回は以上です。