「桜」の巻

 大学へ一ヶ月ぶりに行ったら桜が咲いていた。もう散り始めといったところだろうか。このところ雨が続いているのでわたいの周りではほとんど散ってしまったか、葉をつけているかである。そのせいか今年は華やぎが幾分少なく見え、同時に葉桜は時の流れの速さを髣髴とさせ、先行きの闇さを匂わせているように邪推してしまう。思うに異常気象というのは身体的な側面に害を及ぼすのみならず、情緒のような形而上的な部分にも影響してしまうらしい。
 わたしは花見の習慣を持たない人間なのだが、桜を眺めるのは好きだ。殊に夜桜の佇まいは性慾を刺激されているかのような興奮を覚える。そもそも花というのは植物なりのセックスアピールなのだから大雑把な生物的観点を持てば情感が高揚してもなんら不思議ではないはずだ。とかくに桜は美しい。
 かつて、わたしには絶好の景観があった。部屋の北側の窓に一本、桜が隣接していたのだ。細いけれどもそれそれで桜の儚さを知っているかのようで空に浮かぶ月とのコラボレーションに唸ることもしばしばだった。もちろん桜の姿は春にのみ見るものではない。初夏あたりから葉を漲らせたり、秋に色づき、冬に骨立するといった季節ごとの変化は「時間」ではない「時」の存在を感じさせてくれた。現在では切り落とされ、忌々しい(と書くのは住民に対して語弊があるが)アパートが目の前にある。おかげで部屋のサッシは常に閉めておく必要があるし、雨戸を開けるときも顔を合わせないように見計らって行なわねばならない(そんな気に病むこともない、とお考えの方もいるかもしれないが、わたしは軽い対人恐怖症患者なのである)。以来、座って桜を眺めることもなくなった。これを脱皮ととるか訣別ととるか、判断に迷うが、わたしとしては日々の楽しみをひとつ奪われたにすぎない。苦情を申し立てる権利がないのはわかっているのだが。