「人付き合い」の巻

 万物は流転するものの、誰かに再会して「変わらないねえ!」と言いながら笑うのは人の常である。が、その裏には確実に「お前変わったなあ」という言葉が潜んでおりやはり人というものも時が経てば変わるものだと再確認しているのだ。その変化は外面に主に表れる。たとえば服のセンスだったりいつの間にか煙草を喫むようになっていたり。わたしは以前にも書いたように再会するのをあまり好まない人間である。これは変化を察知されるのを極力防ぐためであり、変化そのものを歓迎しないがゆえだ。変化は疎遠をもたらし、疎遠はさらなる変化を促す。先日も知人のひとりに「お前は物事を断定して観る癖がある」と言われたが、これはその前にもゼミ仲間に指摘された事柄であり不変のほうが察知されやすい、ということもある。人付き合いとは接近と疎遠の連続であり、頭の中のアドレス帳は一定量の許容しか認められず(その容量の大きさが世渡りの能力を左右するのは言うまでもない)、それを超えたら自動的、あるいは意識的に削除されるものだ。
 わたしは物覚えが悪いせいもあるのか、再会した人を忘れてしまっていることも珍しくない。十年ぶりの再会を先日果たしたものの事実、ほとんど覚えていなかった。とはいえ対人恐怖症のわたしは「どちらさまですか?」と訊くことさえままならない。考えてみると、自分の人間関係に対する心構えがきわめて消極的であることに気づく。たとえば同じ機関に属しているあいだはいいが、その後は疎遠になるというのがよくあるパターンだけれども、わたしはその極端な例を行っているように思うのだ。これもきっと打算で人間関係を築こうとしている浅ましさの表れではないかと考えると気分が暗くなる。わたしは不器用なのでなるべく人との縁を希薄にしてリスクを下げているふしがある。なぜ確信が持てないのかというと、自身にさえそこまで信用を置いていないからだ。わたしが酒の席で他人のことは尋ねるのに自分のことはあまり話さないのもそのリスクの削減を念頭に置いているがゆえである。なので、以降もきっと「現在の付き合い」になるべく重心を据えるのだろう。
 けれども、傷心状態のときにバカ騒ぎしてくれる知人がいるのはありがたいと思う。