第0回 序説

 今回もいつもながらの自分の好きなものに対する理論武装であり、言い換えれば世間一般の学術論文とベクトル的にはほぼ同じものを書く。「ヤンデレ」がわからない方は検索でもかけていただきたい。というのもまだ発展途上的存在なので明確な指針が立っていないのだと思われる。そのため、一応としてmixiのコミュニティへのリンクを貼っておき、またそこにおける定義を元に以下を書き進めることを先述しておく。
 コミュ「ヤンデレhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=464043
 言葉そのものはごく最近出来たものらしいが、実例は過去にある。というのは「言葉」の基本的性質で、なぜなら、何かがあってそれをどう呼んだらいいのかわからないので仕方なく用いるのが「言葉」だからだ。ヤンデレもその例に漏れず、遥か昔にその実例を求めることが出来る。殊にわれわれ日本文学に携わる人間には避けて通れないといっても過言ではない事象だからだ。まずは日本における恋物語の原典的存在『源氏物語』における六条御息所が挙げられる。源氏の正妻・葵の上に対する嫉妬から生霊となって祟り殺すという、先駆者の名に恥じない病み具合だ。同じく上代の『道成寺縁起絵巻』における清姫も忘れてはならない。僧・安珍に対する恋慕からストーキング→安珍を追いかけ回す→恋が憎悪に変換→口から火を噴く→海蛇化→安珍を籠った寺ごと焼き殺すというB級映画のような展開を見せる。時を経て、浄瑠璃や歌舞伎、中でも西鶴好色五人女』で有名な「八百屋お七」は実在したヤンデレである。火事(天和の大火)で避難した際に出会った寺小姓との再会を願い、「火事を起こせばまた会えるかもしれない」という思考から放火未遂を引き起こした。男性の例では、恋に悩んだ挙句に「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていた」と遺し自殺した、漱石こゝろ』のKが有名どころか。とかくに枚挙に暇がない。
 わたしにはヤンデレの要因が、日本における長くからの問題である「愛の不在」によるものだと思えてならない。日本古来に愛という概念はなかなかに明文化されなかった。あったのは畢竟「恋」であり、この心の動きは「乞ふ」に語源を持つがゆえに欲望の延長線上にある。欲望の一種だということは、常に自己中心的に展開され、高められれば感情や行動などがエゴイスティック(=前述の殺人、放火、自殺←自殺ほどエゴイスティックな行動もない)に作用するわけだ。彼らの「病み」はつまるところ欲求不満の裏返しに相当し、その解消が祟り殺しや異形化、放火なのだ。もちろんそのアクションが過激さは彼らの恋する気持ちとそれに対する抑圧とに比例する。そもそも日本人は(殊に文学において)「恋」しか持ち得なかったのだから、これだけ前例を挙げることができるのは当然と言えば当然である。「恋とは性慾の詩的表現である」結局のところ、日本における「恋愛」なんてものはこの一言に尽きるのだ。

 今回は以上です。