補完途上

 UnderworldOblivion With Bells』を聴く。以前にも書いたが既に彼らには何の期待もしていないので高評価が前提となって(=これ以上下がることがない、ということ)の鑑賞となった。先行シングル『Crocodile』が示していたとおり、前作『A Hundred Days Off』からさらにダンスミュージック色が薄くなった。ちょっと前まで何万というクラウドを牽引していたのが嘘のようである。というか、前作にしたって決してフロア向けではなかったはずだ。「Two Month Off」と「Dinosaur Adventure 3D」がクラブでへヴィ・プレイ、という話を前作リリース当時に耳にしたが全く信じられなかったのを覚えている。「Dinosaur〜」はともかく、「Two Month Off」がダンスミュージックであるはずがないからだ。あれはどう考えても聴くための作品だろう。とにかく今作でUnderworldはいよいよリスニング重視のバンドとなった。
 言うまでもなく要因はダレン・エマーソンの不在である。これについて是非を今更問うつもりはない。が、Underworldの現在の作品体制にこの事実を無視することはできない。ダレンはDJ上がりであり、言いかえれば「人を踊らせること」を中核にして音楽と付き合ってきた人間である。「rez」や「born slippy」があれだけ幻想的なリフを携えていながら強烈なビートを叩きこんでいるのはダレンの存在あってこそだ。今作『Oblivion With Bells』に「Glam Bucket」という曲があるのだが、まるでブレイクビーツを抜いた「pearl's girl」のようだった。換言すればあのブレイクビーツこそがダレン・エマーソンの存在意義とその証左であり、逆にいえば「Glam Bucket」は二人になったUnderworldというバンドを如実に物語っている。
 先に述べたとおり、わたしはダレンの脱退についての利害を言うつもりはない。だがUnderworldがダンストラックメイカーではなくなった原因のひとつはその事実だ。今回、最もわたしが言いたいのは、今作でもって漸く「二人だけのUnderworld」として再起動できたらしい印象を受けたということである。思えば映画『Breaking and Entering』のサントラを手掛けたのもリスニング指向の布石だったのかもしれない。映画音楽は言うなれば料理におけるソースのようなもので、自己主張しながらもそれ単体で「料理」にはなり得ない存在であるべきだ。端的にいえばイージーリスニングの延長線上に位置しなければならない。話をレコードに戻そう。漂泊感、という語がふさわしい音作りは相変わらずだし、引きこまれていくようなリフの美しさも健在だ。しかし、身体は動かない。代わりに聴覚が鋭敏になる。もはや人々を揺らすことは出来ないかもしれないが、しかし、これが二人の出した結論であり、これらの音が明確な決意表明であるならばこれほどめでたいこともない。なぜならたとえ再出発であろうとも、門出は常に祝福されるべきだからである。