第2回 詩音かわいいよ詩音

 『ひぐらしのなく頃に』の園崎詩音、というかムック『ヤンデレ大全』における彼女の扱い方について。この書籍ではとりあえず多方面からの「病み」を扱い、解釈の幅を広くとっているけれども、結局のところ精神的なそれを対象にしているのは遍し状況である。ここで園崎詩音については微妙な問題が発生している。『綿流し編』および『目明し編』における彼女の凶行は雛見沢症候群という身体性疾患によるものというオフィシャル設定が存在しているからだ。先に述べたようにヤンデレの「病み」は精神性を対象にとり、主に強迫的思考が原因となる。確かに詩音には北条悟史の失踪とその実行犯が園崎本家であり、その復讐を目論んでいる節はある。だが、彼女がその手を血に染めるのは綿流しの祭以降、言いかえればL3発症後の出来事(祭りの前日の時点で羽入を感知していた)であり、身体性疾病的要素が介入してしまう。
 もちろん悟史への想いと園崎本家への疑惑があっただろうが、雛見沢症候群がそれを加速させる触媒として位置づけられている以上、復讐と彼女との関係は直結しているとは言い難い。ヤンデレの構造のひとつには行動と思考・感情の直結(≒直接的手段へ訴えやすい)があるのは敢えてここで挙げるまでもない。逆の表現をすれば詩音の想いそのものが昇華されての「病み」ではない、ということだ。公由村長や沙都子への拷問と殺害は、彼女の本来持っていたサディスト的思考が雛見沢症候群でもって増幅したものとも考えられる。また、『綿流し編』『目明し編』での詩音は悟史の死を受け入れているのだが、果たして対象の喪失を理解してしまった場合に「病み」は発生するのだろうか。「病み」は換言すれば執着である。悟史が失われたことを自覚した以上、執着はほとんど消えている(=独占欲の対象がなくなっている→諦めに近い考え)はずである。ヤンデレキャラにとっての第一目標はその対象の近くにいることだ。既に(園崎本家による)悟史の死を確信した彼女が「病み」を発症するとは考えられないのである。
 この論は恰も「詩音はヤンデレキャラではない」というベクトルを採るように読めるが、そうではない。彼女にはL3発症以前、すでに本来的に「ヤミ」と「デレ」とを備えてはいた。しかしそれが描かれていたのが『綿流し編』でも『目明し編』でもない、というだけのことだ。彼女のヤンデレ的性格が表層化するのはむしろ『皆殺し編』においてである。知恵先生が北条家に直談判に行ったものの、鉄平に門前払いを受けて帰ってきたあとの学校でのシーンをご参照いただきたい。まず最も強く先生を非難するのは詩音だ。その直後にも「私は悟史くんに頼まれたんだから!」と激昂し、北条宅に踏み込んで鉄平を殺害しようとする。そのうえ圭一を椅子で殴りつけるまで平静を保つことが出来ない。立派な「ヤミ」状態だ。ここまでだと悟史への恋心が「ヤミ」モードへの理由であるかのように見えるが、続くシーンでそれだけではないことがわかる。それは「あんないい子にこれ以上辛い思いをさせてたまるか!」という一言だ。ここで、悟史へのデレが沙都子へシフトしていることが明示されたのである。考えてみれば『目明し編』以降での詩音による沙都子へのデレ具合は相当なものだ。顔を見るために興宮の実家から足繁く雛見沢に訪れ、好き嫌いを治すためと称して弁当まで作り、『厄醒し編』では遂に「わざわざ沙都子の面倒を見るために転校」してくる。お魎がいる以上、本家に住むのは難しいだろうからこれも興宮の家から通っていると考えて差支えない(単車での登校か)。これで前述の「対象が存在してこそのヤンデレ」という定義にも当てはまる。ちなみに上記の激昂シーンでもL3を患っていたと考えられるが足音の知覚などの決定的証拠の不在を理由にして、雛見沢症候群とは無関係の「ヤミ」であるとしたことを追記しておく。
 対象への一途さとその裏返しの狂気、大量殺人と手法の巧妙さ・残虐さといういろいろな点で突出している(それと胸とか)ヒロイン、園崎詩音。彼女自身も非常に魅力的なのだが、それを見事に演じている雪野五月嬢にも敬意を払い、筆を置きたい。

 今回は以上です。