戯言

 NEWS23のコーナー「金曜深夜便」における銀杏BOYZの出演を観る。以前電気グルーヴが登場した際には正気の沙汰とは思えなかったが、今回もその事実を知った時には驚いた。筑紫哲也が一線を退いているせいだろうか(ちなみに電気の際は筑紫氏が同席。スーツ姿の二人が笑えた)、とにかく無茶をするものだと考えた。最初のカットではごく普通の「若者に人気のあるロックバンドの皆さん」で、峯田の応対もまともだったのだが歌う直前で万全の構えだったので安心と興奮と冷笑が同時にわたしを襲った。以下の内容は適当に他のブログなり日記なりをご参照いただきたい。
 教育実習のとき、担任代行を務めるクラスの生徒から「銀杏BOYZいいですよね!」と言われて、わたしは返答に詰まった。よく覚えていないが曖昧に応えた気がする。それは紛れもなく見栄に要因を求めることが出来る。30〜40代が銀杏BOYZに理解を示すのは結構だし、ネタとしても扱うに足る。また、中高生があのバンドに共感を覚えるのは(あの年代がロックバンドという存在そのものに接近するという一般的事例も含めて)当然の事象だろう。けれども、われわれ20代はどうか。正面きって銀杏BOYZを肯定するのはためらわれるのではないか。
 その理由は彼らの音楽や姿勢と、20代という年齢の距離感にある。曲調は四人編成のバンドで可能な衝動的だったりメロディアスだったりという印象だ。換言すれば、やりたいことを屈託なく盛り込んだ音像である。歌詞はと言うとほとんどが「十代の抱える混沌」である。あの年代特有の鬱屈や潔さ、性欲、身勝手さ、軽薄さ、無邪気さが三日目のカレーのようにどろどろに溶けて液状化しているような印象を受ける。20代は、その心地よさが染みついていながら、それを突き放さなければならない、あるいは突き放さざるを得ない年齢層だ。ゆえに率直な肯定に二の足を踏む。彼らにとって銀杏BOYZを受容するのは脱ぎ捨てたばかりの制服を今一度着るのに近いような心地悪さと違和感とを与えるのだ。ここでは「音楽は自由なものだからいい」という台詞すら苦笑の種でしかない。横目で見て舌打ちするくらいの姿勢をとらなければならない。もちろんその一瞥の裏には銀杏BOYZという存在に対する一億のマイナス思考――それは羨望や嫉妬などから成る――が隠れ潜んでいることは言うまでもない。
 かくいうわたしもその一人で、銀杏BOYZに触れるたびに身体に引っ掻き傷を残されたような気持ちになる。彼らは憧憬の対象であるが、と同時に侮蔑のそれである、もしくはそうあらねばならないと自身を追い詰める機会に直面する。この義務感とてもちろん自らの妄念の賜物であるわけだが、しかし、彼らを一笑に付すことは20代の良識とほぼ一致するアクションであり、安寧を求める人間としてはその迎合を受容する他ない。だが、この迎合が自らを偽っていることの証左だという事実も把握しており自己嫌悪に陥るのだ。結果として後腐れだけが残る。聴かなければよかった、観なければよかった、触れなければよかったという後悔がしばらく胸の内で燻るのだ。あんなバンドが存在しなければもっと世の中に適応出来たはずなのにという自己中な妄想さえ浮かぶ始末である。書いててまた自分が嫌になったのでここで筆を置くことにする。