「次元の違い、あるいは方法論の模索」の巻

 ゴダールを追いかけようと考えている。次回のお給金ではDTMを一式揃えようと考えていたのだが「映画史」ほかゴダール作品のDVD-BOXを購入してしまいそうな勢いだ。今年最初に観た映画は何度目かの反復になる「東風」だった。わたしはYMOからこちらに足を踏み入れた人間の一人だが、初見ではしっかりと衝撃を受けてしまった。この映画がわたしにとってなぜ衝撃だったのか。それはその手法という単純な視座による。
 文学には三つの形態がある。ひとつは小説、あるいは詩歌といった物語性のあるものだ。この性質は文学にかぎらず音楽や映画、絵画などにも適用される。娯楽性が高く、受け入れる層が広いのもこちらで、言い換えれば経済的効果を望みやすいジャンルだ。二つめは随筆、記録、もしくは論文といったドキュメンタリーである。現実を描写し、媒体に投影する。報道とは異なるものの対象となるのは現前の光景である。資料としての価値も高いのも大きな特徴といえよう。三つめの形態は批評である。これは文学以外の表現方法において目にすることはきわめて稀だろう。先生はご自身の著作の中で宇宿允人の音楽を批評として提示していたような記憶がある。
 ゴダールの作品はこの批評性を映画に持たせてしまった点において自己同一性を確保している。「東風」はその最たるもののひとつで、ほとんど台詞は途切れることなく思考の全貌を語る。映像や音楽はその補足としてある。スタッフを映し、象徴的(つまり、批評されうるべき)シーンを嵌め込み、時として現れた映像をも批評の対象とする(≠自己批判が行なわれる)。蓮實重彦氏が「JLG/自画像」においてゴダールの言うことを信じてはいけない、あるいは「ゴダール的な罠」と発言したのもこの「批評性」にある(このトークライヴではいわゆる『蓮實文体』的喋りを披露しており、氏が根っから『ああいう表現』をするのだと実感した。詳細はDVDをご覧あれ)。批評とは言うまでもなく方向性のひとつを示すものでしかなく、そこから新たな批評、あるいは作品を生み出す契機として機能する。それは換言すれば「発言」であり「提起」である。常にスタート地点を立つこと、これがゴダール映画のスタンスなのではないか。

 今回は以上です。