Perfume細見

 Perfumeの2ndアルバム『GAME』を聴く。Rhymester宇多丸氏がすでに言及しているように、Perfumeは久々のアイドルらしいアイドルだ。わたしの感覚でいえば約20年ぶりといったところか。この「20年」という限定された数字には明確な理由がある。バンドブームだ。テレビ番組「平成名物TV イカす!バンド天国」や原宿の歩行者天国における路上ライヴの頻発からの波及はそこそこ大きなムーヴメントであり、確かに彼らの一部はアイドル的人気を博しただろう。しかし、それは畢竟「アイドル的」であり「アイドル」そのものではない。
 さて、ここまでで自明の事実であるがわたしは「アイドル」の定義づけを自分なりに行う必要がある(ちなみにこの行動はアイドルたる彼らを愛した記憶が無い人間によるものであり不確かな部分を持つだろうことを先に詫びておく)。この語彙は日本語の直訳を「偶像」としている。つまりそれ自体に事実性の伴わない、あくまで媒介としてのみ存在するものだ。ということは技能やセンスが本人から感じ取れる「バンド」は彼ら自身に音楽性が介在するため、アイドルではない。極言するなら、たとえば歌手的アイドルに歌唱力や音楽的知識を問うのはお門違いであるし、グラビアアイドルに対し写真の光加減や衣装の具合を云々するのは愚の骨頂だということである。技能やセンスはすべてプロデューサーに一任され、ただ表舞台に立つだけ(無論、『立つ』のはアイドル本人であるから相応の努力は要されるだろう)の存在が「アイドル」なのだ。では、アイドルの魅力が技能やセンスでないとしたらどこにあるのか。「技能」「センス」は須く経験と努力など後天によって培われる。言い換えればアイドルの魅力に何かしらの原因があるとすればそれは天賦に他ならない。
 90年代にはモーニング娘。というタレントがいたが(そして現在もいるわけだが)彼女たちが上の論からアイドルにカテゴライズされ難い存在であることは言うまでもない。なぜなら生成される段階ですでにドキュメンタリー性が含まれていたからである。ドキュメンタリーは「事実」なくしてはありえず、事実性を排しているはずの「アイドル」とは相反する要素でなくてはならない。確かにプロデューサーのバックアップで人気を博している点では連関するが、彼女たちは「偶像」よりも「人間」であるらしいことが人々に認知されている以上、アイドルではありえないわけだ。ジャニーズも同様、結婚が報道されたりメンバーのうち一人だけが映画で主演を張って好評を博したりというのは畢竟アイドルではなくそのメンバー自身の才能の表れであり必然的に事実性を伴ってしまうのだ。
 Perfumeに話を戻そう。ここでは彼女たちがいかにアイドルであるか、換言すればいかに「お人形さん」であるかという検証をしたい。まず、全国的人気を博す以前の状態があり、なおかつそれが世間的に広まっていないこと。これは前述のモーニング娘。のように形成期を逐一報告する状態とは真逆であり、同時にPerfumeの「アイドル」的要素を補完している。また、彼女たちには「顔」が無い。とりあえず映像媒体で紹介される際に各々の名前が表示されるが、自身、ならびにファンが用いるのは専ら「あだ名」である。名前という「顔」=事実性の最たるもののひとつを日常的に隠匿するのもまた「お人形さん」に必要な部分ではないか。続いて音楽に関して。Perfumeのプロデューサーは中田ヤスタカである。彼自身のプロジェクトであるcapsule同様にエレクトロ・ポップ(これは80年代の『テクノポップ』と差別するための術語であり、明確なジャンルを示すものではない)を前面に押し出した楽曲を提供しているわけだが、この手の音楽とアイドルは相性がよろしい。バンド・サウンドであるならばライヴの際に楽器を演奏する人々がいなければなるまい。バンドという存在に事実性が付与されているのは先述のとおりであるから、アイドルの偶像性を少なからず侵蝕し、その魅力を色褪せさせてしまうのだ。けれどもテクノならびにそれを含む電子音楽で「売って」いるならばステージに立つのはアイドルのみである。オーディエンスの食指もぶれることがなく、存分に堪能できるというものだ。また、ヴォーカルをフィルター処理しているのも「顔」である声色から事実性を薄めており、この処理がエレクトロ・ポップと相性がいいことも書き加えておく。
 以上の点からPerfumeはしばらく邦楽界に存在しなかったアイドルの再臨といえよう。この価値がどれほどのものかわからないけれど、久しく日本に「アイドル」がいなかったという事実は証明できたと思われる。

 今回は以上です。