「若々しさ≠若さ」の巻

 NHK総合イッセー尾形のたった二人の人生ドラマ」を観る。三人の俳優とそれぞれ二人芝居を行うものだが、舞台は博多は中洲のとある屋台で固定し、人物の大まかな設定以外は一切のアドリブという極めて野心的な企画である。元YMOの三人にしてもそうだけれど、50歳を過ぎてもなお新しいものを追求するその姿勢に感動を覚える。ゲスト俳優は大泉洋小松政夫石田ゆり子。設定はそれぞれ「義理の親子」「単身赴任した人事部長と現地の社員」「何年かぶりに再会した、元漫才師の父親と水商売で働く娘」というもの。
 当然わたしの一番の目当ては小松政夫である。タモリと一緒にやっていた材木屋のコントを見て以来、その発想の方向性にわたしが大きな敬意を寄せている人だ。この二人の芝居では、何より「小狡い」という印象が残った。アドリブともなればいくら熟達していても沈黙は避けられないものである(と素人には考えられる)。では、それでも「芝居」とするにはどうすればよいのか。二人の取った方法は(これは三作品全般にも言えることだが)自然と登場人物の二人が押し黙ってしまうような設定にしてしまうということだった。反則的といえば確かにそうだが、その方法を思いつくだけでもわたしは平伏せざるを得ない。また、しっかりと「かみ合わない会話」になっていたのも素晴らしい。「会話がかみ合っていない」のと「かみ合わない会話」は全く異なる。そして笑いが生まれるのは後者だ。「かみ合わない会話」とは、言い換えれば「会話がかみ合っていないという点が明確に打ち出されている会話」である。二人の芝居は紛れもなくそれだった。互いに「通じ合えないんじゃないか」と考えながらも通じ合おうとし、「結局無理っぽい」ということがわかる、まさに「かみ合わない会話」であった。
 しかし、それ以上に凄かったのが石田ゆり子である。イッセーに対するリスペクトの表れだろうか、ガンガン斬り込んでいっていた。見ていて爽快なくらいに、また、ちょっとどうかと思うくらい素直にイッセーを追い込んでいた。彼の芝居は、一人でやっているものを見るのが多いせいか、共演者によって追い込まれるイッセー尾形、というのはなかなかに珍しい光景である。同時に、彼女がいかに女優として成熟しているかを垣間見ることが出来た。一瞬だけ悩んでいる表情がどの芝居にも見られたが、大泉の場合は「ここからどう持っていこう」という芝居を見据えた視座にあったが、石田のときのそれは「どうやって切り返そう」という、彼女との対峙によるものだった、とわたしには区別できる。
 そういえば今年の春あたりにもNHKで新作を披露していた(『ベテラン俳優』)イッセー尾形。これからテレビで繁く彼を観られるようになるのかもしれないと思うと、胸が躍る今日この頃である。