Next Level

 Nine Inch Nails(以下NIN)『The Slip』を聴く。このご時世にCD二枚組ならびに超低価格ダウンロード販売やプレミア・マテリアル形式など多くの事象を孕んだ前作『Ghosts I-IV』からわずか二ヶ月でのリリース、しかも今回は無料ダウンロードである。儲ける気がないのかライヴでの収益でトントンだと踏んだのか謎は尽きないけれども音楽好きな貧乏学生としては単純にありがたい話である。また、驚くべきはやはりこのトレント・レズナーという男の多作ぶりだろう。レコード会社との軋轢こそあれ、彼はコンスタントに作品を発表し続けており、前述のとおりこのたびのブランクはたったの二ヶ月である。それでも決して惰性で制作している節は見られない。この立ち位置は誠に稀有であると言わざるを得ないだろう。さて、わたしは決して彼のファンというほど聴きこんでいない(何しろ『Further Down The Spiral』から入ったクチなので)ためにここでは『The Slip』と既存の(なおかつわたしの所持している)作品とを比較し、今回のアルバムは何物なのかを考えてみたい。
 一聴するに実にまっとうなロックである。デビュー以来、枕詞的に使用されている「メタル」や「インダストリアル」といった形容に属する音は確かに聞こえるものの結局どこにも極を向けることが出来ないがゆえに「ロック」と形容せざるを得ないというのが正確な言い回しか。デビュー作『Pretty Hate Machine』では「メタル的ロック」、或いは「インダストリアル・ロック」というジャンル区分が為せるような、言い換えれば誰でも容易に判断を下せるようなレベル(ジャンル分けは一般に音楽を聞く人の便利な指針となる)であったが、トレント・レズナーはいよいよこの区分を不明瞭にさせてしまうだけの音楽作品を作り上げてしまったらしい。それだけエレクトロニクスとバンド・サウンドとの間に障害が少ないのだ。それは「生音と電子音の掛け合い」ですらない。「掛け合い」では両者に対峙があるからだ。『The Slip』における両者の関係は言わば癒着であり、引き剥がそうとすれば作品が破綻し瓦解するだろうほどの有機的な結合である。なぜNINの音はここまで電子音楽を呑みこむことが出来たのか。それは単に彼らの作品がそのアクションを継続してきたからではもちろんない。ここでわたしは今一度前作『Ghosts I-IV』を引き合いに出す必要がある。
 『Ghosts I-IV』を聴いてわたしが真っ先に連想したのはAphex Twin『Drukqs』である。既存のスタイルからアンビエント、果てはアコースティック(というか現代音楽)の流れまでを無造作(であるかのよう)にコンパイルしたさまは非常によく似ている。30秒〜二分程度の小品が目立つ点やCD二枚組というのも該当するだろう。言うまでもなくNINとAphex Twinは過去に共作の経験があり、以降、互いに影響を受けていると踏むのは乱暴な推測ではない。『Ghosts I-IV』においてトレント・レズナーはやはり『Selected Ambient Works』の頃のリチャード・D・ジェイムズのような流麗なアンビエント・トラックを創り上げているし、プリペアド・ピアノのような音がする曲、果ては90年代のアシッドハウスを彷彿とさせる作品まである。言い換えればこれは習作である。おそらくスタジオの中にはこれに近いものが何倍も納められていると思われる。したがって、これらから窺えるのは電子音楽への接近ならびに研究だろう。アシッド系シンセベースを打ち出すことは彼の興味でさえあれ、作品への直結はない。ゆえに習作でありサウンドトラックなのだ。そしてこの契機というかこの流れの脈動が感じられるのが『Y34RZ3R0R3MIX3D』であることは言うまでもない。
 以上の観測から『The Slip』はNINにとってひとつの重要な点となるだろうことが推定される。もし今作を聴いて「NINは変わってない」などという評価が発生するならそれはきわめて浅薄であると言わざるを得ない。決して誤りではなく、ただ浅はかにすぎるというだけだが。NIN、ならびにトレント・レズナーは前作で持って電子音楽へ明確に接近し、究め、これまで使用してきたものを(完璧にとは言わぬまでも、ある程度)構造的に理解した。道具をただ用いることと、それの仕組みを把握した上で駆使するのは全く異なる行動と効果とを生むのは自明である。その結果として生まれたのがエレクトロニクスとロックとを編み上げた『The Slip』なのだろう。とはいえ、まだまだ実験段階なのかもしれない。無料ダウンロードというリリース方法がその理由を物語っている。さらに空想を膨らませるなら、トレント・レズナーグレン・グールドの逆を行っている数少ないアーティストなのかもしれない。換言すればNINはロックが21世紀を迎える鍵を握っているのだ。

 今回は以上です。