宇宙からの使者

 宇宙をテーマに作品を成したり自らを「宇宙人」と位置付けて活動を行ったりというのは音楽の世界においては珍しくないどころかむしろありふれているという形容さえ的外れではない手段である。たとえばホルストの「惑星」やDavid Bowieの『ジギー・スターダスト』、Earth, Wind and FireやSun Ra、テクノ方面にはJeff Millsにかつて「The Martian」という名義でレコードを出したMad Mikeおよびサイド・プロジェクトのGalaxy 2 Galaxyなど。実例には事欠かないが、ここにはあるひとつの問題がある。それは彼らが音楽作品に携わっていること、より的確に言えば音の存在しない「宇宙」という空間と音楽との交感を提唱している点である。音はすなわち空気の振動であるから、空気の存在しない宇宙にはおいては常に無音のはずだ。ではなぜ、彼らは音と無関係の(というか対極の位置にある)宇宙と音楽とを結びつけるのか。
 進化のスピードについてはさまざまの疑問がある。なぜ恐竜の栄華が潰えたのか。最初の微生物から生物への転化の契機とは何か。それと同様に「知性」とは何をもって誕生したのか、という問題は決して蔑ろにされてきたわけではないが未だ決定的解答を導くには至っていない。にせよ、方向性を分けることはできる。言い換えれば知性が自発的に発生したのか、それとも外的触発によるのかというベクトルだ。無論前者であるほうが科学的だし生物学的にも納得のいく過程を辿りそうなものである。けれども、知性の誕生とその浸透はどうやらその理屈には合わない加速度を持っているらしい。というわけでスタンリー・キューブリックという20世紀の鬼才のひとりはそれを突然地上に現れた石柱に原因を求めた。合理的に説明しようとすればするほど非合理性が明らかになるので、根本に非合理を付加し、その他一切に対しての合理性を得んとしたわけである。これが果たして適当な手段であるか否か、わたしには判断し難いことだが、ここにどうやら音楽家たちと宇宙の接点があるように思われるのだ。つまり知性とは決して自発的要素のみによって生まれ育つものではないという認識である。音楽作品とは目下、知性の賜であり、下僕だ。そのすべてを知性が管理していると言い換えてもいい(『芸術作品』とカテゴライズしなかったのは借景や造化を鑑みた際の矛盾による)。しかし、その知性が自発的とは考え難い以上、音楽もやはり外的要因によるものなのではないだろうかという考え方である。そしてわれわれにとって「外」の代表格は宇宙である。尤もこれは宇宙が「外」の筆頭であるというわけではない。徹底してわれわれにとって「外」なのは「死」だからだ。
 John Cageは『4分33秒』をもって無音の不可能性を示した。並びに、音楽とは音によって構成されているがゆえに宇宙に出ることはできない。数多の音楽家が作品や名義に宇宙を模したのは、この事実における半ば憧憬にも似た感情によるものではないだろうか。言うまでもなくその憧憬は決して叶えられることのない夢と同じ要素を持ち、したがってモティヴェイションと活動の糧となる。宇宙を想って音楽に向き合う理由はこの半永久的原動力を求めたがゆえなのかもしれない。エンデバー号の打ち上げ成功のニュースを観ながら、こんなことを考えた次第である。
 今回は以上です。